生理的な恐怖のこと

私がいつも読んでいるしょこたんのブログに、タクシーの窓から事故にあったライダーを目撃したというエントリがあった。
読んだ瞬間にはっとして胸がしめつけられたけれど、しょこたんの視線は優しくて、繊細で、ただ「怖い、ヤなものみちゃった」という日記では全くなくてもともと好きだったけれどさらに好感を持った。


思い出すのは
ちょうど私がバイクの免許を取った頃、
家族に「明日卒検で、うかったら、バイク買って乗ります」と宣言し、
家庭崩壊の危機を迎え、しかし粘り強く説得を続けてそれが効を奏し始めたかと思われた頃。


昔250ccに乗っていたという、一番ハト派だった伯父が、通勤中にバイクの事故を目撃したのだという。
詳しくはきかなかったが二人乗りで、トラックに突っ込んだのだそうだ。
以来、家族は何が何でも絶対にバイクには乗らせない、1台でも他の車がいる可能性がある限り
絶対に公道では走らせない、という姿勢に変わった。


言いにくいけれど、正直なところ、当時は、自分にとっては絶対バイクに乗っちゃいけないというショックのほうが大きかった。
事故に遭った人たちの家族のこととか考えたらそんな不謹慎なこと、と頭では思いながらも、あまり実感がわかなかったから。


その後、1度だけ、半年くらい前に車対車の事故を目撃したことがある。交差点の真中での車同士の右直事故だったが
直前で、どちらかが止まるだろうと思ったのか、両方の車がかなりゆっくりになって、それでも避けきれず
ぶつかってしまった。びっくりするくらい大きな音がして、双方の車のフロントがゆっくりひしゃげていった。
まるでスローモーションのようだった。


私が当時乗っていたタクシーの運転手さんは、しょこたんがのったタクシーの運転手さんと同じように
ドライというか諦めているというか、そんな反応だった。まあ、乗っている人の命には別状なさそうな事故だったからだと思う。


でもそんな事故でも、初めてみた私にとってはすごい衝撃で、漠然と想像したことのあるそれとは全く違った。


そのとき改めて、私の家族が半永久的にバイクに反対するきっかけとなった事故のことを思い出して、これが鉄の箱対生身の事故だったら、その瞬間を目の前で目撃したら、自分の大事な家族には、何が何でも絶対にバイクに乗ってほしくないという気持ちになるのも不思議はないかも、と考えた。


多分、バイクの事故も、漠然と私が想像しているものとは全く違うのだとおもう。先日なくなった友人の事故の様子も、自分が随分落ち着いて明るく喋っているときにほんのすこしだけ聞いたが、私はバイクの事故を目撃したことがないので、先の車の経験からいっても、自分が想像した映像と、実際のそれはきっと全く違うのだとおもう。見たことがなくてよかった、と心底思った。まったくの想像だけでも、何度頭を振っても、他の楽しいことを考えても、頭から映像が消えなかった。


今は、家族の運転する車に乗って外を走っていると、バイクが脇をすり抜けていくたびに胸が締め付けられて、怖くて仕方なくなる。お願いだから危ない走り方しないで、と祈るように思う。いつかどこかでバイクの事故を目撃したその瞬間に、過去の時点では細部や音響がおぼろげだったその映像が一気にリンクするのではないかと思って、車がいっぱい走っている大通りに出るのがすごく怖くて、体が固まる。


バイクは好き。バイクに乗るのも、きっと桶川にいって、乗ったら、楽しいんだと思う。乗りたい、練習したい、と思うようになってきた。


今までは、おぼろげに想像して公道怖いって思ってても、それはエンストしちゃったら、とかタチゴケしちゃったら、とか、うまく車線変更できなかったら、とか車に意地悪されたら、とか、桶川でも経験することが公道で起こったら、と思う恐怖や、自分が車に乗っていて経験する怖さの想像による延長、頭で考えてシミュレートした上での恐怖でしかなかった。今は全く別の意味で、怖くて仕方ない。自分に危害を加えるものがどこかに潜んでいるかもしれない、という、夜道を怖いと思う気持ちに似ているかも。


バイクは好き、だけど公道は怖い。理屈じゃなくて生理的に怖い。これはもしかしたら私の家族にとっては喜ばしいことなのかもしれないけれど、すごく悲しい。こんなふうになりたくなかったのになぁ。


桶川で一度お会いしただけの方から、「焦って立ち直り方の理想を決める必要はない」というメッセージをいただいてとてもとても気持ちが温かくなり、自分を見つめなおすことが出来た。でも見つめなおした結果、バイクに乗りたいという気持ちには嘘はないから、無理してない、焦ってない、と思っていたけれど、「自分とバイクだけの力で遠くにいきたい、変わる景色をみたい」っていう強烈な憧れがなくなってしまっているのに気づいて、少し、焦る。